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  【スプリントへのメール      2005年10月16日(日)

 

人を信じ、世を信じ、神を信ぜよ」は、諸思想諸学問諸宗派の統合神理であり、既存の全学問を「信仰」によって神の次元にレベルアップし、統一止揚した神理ですが、概要だけは理解できたことと思います。

まだ既存の宗教の未熟な点、足らざる点は理解できていないかもしれませんが、どうして既存のキリスト教と仏教の教えが既に終了しているのか、具体的には理解できていないと思います。

一度リポートでも扱いましたのでその「教えの限界」や欠点の概要は理解できているかもしれませんが、キリスト教や仏教の教義では、実は地球的規模の救世においては救えないわけです。

過去、日本でも「
神の思想」を説かれた方はいるわけですが、彼らの思想的高みの異常性が、他の既存宗教の教義との関係からどの程度の「異常な高み」にあるのか、具体的には理解できていないと思います。

これが具体的に理解できてきます。

ただ現代では聖書や仏典を振りかざしているうちは、神理のプロとは、やはり言えないということです。

それは近代出てきた如来の思想的高みを理解できていないことを意味しているからです。

逆から言えば既存の仏教の全体の教義、キリスト教の問題点等を「神の視点」から理解できていないために、時間が経てばワインのように価値が出てくる既存宗教の権威に依存して、それを「
振りかざしている」とも言えます。

それはエアコンの仕組みを知り、エアコンの意味を理解し、そのエアコンを使用している方に対して、「火鉢」の利便性を訴えている姿に似ています。

既にエアコンを使用している方は、「火鉢」を使うことはないのです。
液晶テレビを使っている方は、箱型テレビを使うことはないのです。

アナログ放送は、デジタル放送に完全移行するまでは「アナログ」と「デジタル」が同時放送をされますけれども、ある地点にきますとアナログ放送は停止され、全てデジタル放送一本になっていくわけです。

人類と文明が進歩していく限り、この現象は避けられません。

今回のリポートでは「
自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」という愛の悟りの段階論に入っておりますけれども、「無我」と「無我の理法」から入り、最先端の実在論とは何かから始めたと思います。

というのは日本では基本が全くできていないからなのです。
本当は内容から入りたかったのですが、既存の天使の神理でも基本が全くできていないために根源である神理の基本から入りました。

「生かす」という「生」を論ずるには、基本ができていないと以後何を説いても効果が出ないことが分かっているからです。

いまだ神我と自我を切って、自我を捨てて神我に入れ、物質を捨てて中道に入れ、現象を捨てて実相に入れといった実在論から全然抜けられていないわけです。

実在論は高橋信次氏は全くといっていいほど教義の中では扱っておりませんし、宗教では唯神実相哲学が唯一行っていると思いますが、不完全です。

本来、物質なし」、「本来、肉体なし」、「本来、悪なし」、「本来、宇宙なし」、「本来、病なし」、「本来、天国なし、地獄なし」「真我独在、実相独在、本来、現象我なし」、「善のみ実在、光のみ真理」と説かれてきましたが、「無明縁起説」の踏襲でも見られますように最後まで物質を認めることができなかったようです。

実在論を最も正確に悟られているのは、宗教家というよりも、むしろ哲学者である西田幾多郎博士です。

近代、「
神の思想」を説かれた如来の中では世界の中でも西田哲学が一番高いといっていい。

今後、神理を学習せんとする方は、ヘーゲル哲学と西田哲学は避けて通れません。

実際、ヘーゲル哲学と西田哲学を避ける宗教家の思想は幼稚です。

自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」は基本から入ったために、本論までいきませんでした。

宗教的にも色々な既成概念が既についていて、その既成概念を善のように認識してもらっては困るために基本から入らざるを得ませんでした。

その結果として本論が後回しになってしまいました。
次回以降、継続して取り上げていきたいと思っています。

というのは基本だけではなく、過去の如来といわれる方々がどういった神理を説かれてきたのかを学習している形跡すら見られないからです。

例えば仏教の「般若の思想」には「
色即是空、空即是色」という教えがあります。

「色」は形あるもの、五官で認識できるもの、現象や物質の全体を意味します。
森羅万象の存在の一切を「色」と言います。

「空」は心の動きの全体を指します。

哲学では「色」とは言わず、「物質」、「空」とは言わず「精神」と言いますが、仏教ではオーソドックスな解釈として「
『色』はこれ『空』であり、『空』はこれ『色』である。物質や現象(色)は心(空)のあらわれであり、心(空)は現象と物質(色)にあらわれる」と捉えていると思います。

これを日本に生まれた過去の如来である高橋信次氏や谷口雅春氏が、どう認識し、どう捉えていたかを勉強してきた形跡が見られないのです。

この世に生まれる如来の数自身は少ないわけですから、あの世で如来界に帰天しておられる限りは、神の使徒であるならば目を通しているはずなのです。

もちろん仏教では如来は生まれ変わらない、輪廻から解脱していると説かれておりますけれども、そういった幼稚な批判に付き合う時間はない。

如来が生まれ変わると言っている時点で仏教を理解していないといった幼児的批判に付き合う気はないということです。

神理学習の異常な遅れと霊的発達の遅延は、公平に見て我々の側に責任があるというより、その法を学ぶ側に責任がある。

何も最先端の神理を学習してこず、数千年に1回説かれる今回の神理に関して、旧来の劣っている仏教的教説や間違っている教説を権威から「うのみ」にしているような認識からの批判に答える時間は、もはやないということです。

それは私の仕事ではなく、私の下の霊がする仕事である。
また如来の神理を、今まで学んでこなかった側に責任がある。

仏教の教義の方が間違っているとまでは言わないけれども、最先端の神理としては、既に時代に適合せず、それは実際とは異なっている部分に過ぎない。

基本ができていないだけではなく、過去の如来の思想も学習していないのです。

高橋信次氏と谷口雅春氏では、「
色即是空、空即是色」の「」の捉え方が違います。

仏教では「空」を心の動きの全体として捉えています。
龍樹では「無自性」といって森羅万象は相互関係の中で安定している。

山川草木、地水火風、全ては単独では生存しえない。
相互に関係しあって、それぞれが存在している。

森羅万象の個々の事物には「自性(じしょう)」がない。
「無自性」である。
単独ではどれも生存しえない。

例えば草木は空気と水、養分と日光といった他の事物があって、初めて発育しうる。
草木は草木だけで単独では生存しえない。すなわち自性がない。

日光や水、養分や空気を必要とします。
それぞれが関係性をもって一つとして存在しているために個々の事物には「自性」がないと言います。

すなわち自分がない。
森羅万象は「無自性」である。

しかして森羅万象は関係しあいながら一つとして存在している。
この個々の自性が欠如した事物が相互に関係しあって、全ての事物が一つの存在として成り立っている世界の姿を「空」と言います。

この「一つの存在」を仏教では「空」と言っているわけです。
従って仏教ではよく森羅万象を、「空」であると言います。

「空」は単なる虚無性ではない。
一つの心の動きと言ってもいい。

従って般若が言う「色即是空、空即是色」とは、森羅万象の「色」は、これ一つの存在、一つの心、「空」のあらわれであり、この一つの心、「空」は森羅万象の「色」としてあらわれているとする解釈が一般的だと思います。

これを近代の如来である高橋信次氏と谷口雅春氏は、「空」の部分の解釈が異なっているのです。

高橋氏は「空」を「在り」として捉え、物質とエネルギーの関係から「色」と「空」の関係を説きました。

エネルギーを「空」として、「
これは在るのだ」とし、このエネルギーが「色」としてあらわれているのだ。

そして物質の「色」は、また「空」としてエネルギーに戻っていくのだ。
これが「色即是空、空即是色」の意味であると言いました。

物質とエネルギーの不二の関係と循環の姿です。
「色」と「空」の関係は不二一体であり、無限に循環しながら、永遠に、より巨大な光エネルギーと化していくのだといった捉え方をしていたということです。

対して谷口雅春氏は「空」を「在り」とはしていません。
逆です。

唯神実相哲学では、「空」は「無」と同義なのです。
「色即是空」、「色」は、これ「空」であり、「無」である、物質はないのだ。

そして「空即是色」、「空」、この「無」から一切の「色」、物質があらわれるのだ。

「無一物中無尽蔵」であり、「無」から一切の「色」を生ずる、と説かれてきました。

「色即是空、空即是色」の一つをとっても如来によって解釈が異なっていますが、どちらもこれは正しいわけです。

物質宇宙は神の表現であり、神の体です。

森羅万象の「色」は、神の心、「空」の表現であり、「空」たる神の心は、「色」たる森羅万象にあらわれていると捉えても間違いではありません。

ただ仏教の「空観」は、人によって解釈が異なっており、これは近代に生まれた如来でも、その解釈は異なっております。

存在の全般をあらしめている実在を「空」と言うならば、それは神の心と断定していいということです。

また物質の無常性と非実在性を捉えて実在の「欠如」を意味する「空」という言葉を使用するならば、その空観は、神の心ではなく、湖の湖面に映る月の如き幻影を意味していると見ていいということです。

湖面の月は幻影であり、実体としてはない。
あるように見えるがないわけです。

現象の「空相」を指して「空」と言っているならば、その「空」は神の心にあらずということです。

しかして湖面に月が映っている限り、それを映している本体が在る。
その本体を神の心と言いますが、禅のように「無」と捉えるか、実体の空と捉えるかは、その説く者の悟り如何です。

「空」というのは単なる言葉です。
言葉である限り、悟りの「何か」を表現しています。

その悟った実質の「何か」を、その当人が「空」という言葉を使って表現しているのか、あるいは悟っていないのに、すなわちその「何か」を知らないのに仏教的教説の真理の雰囲気だけに酔って、単なる観念と言葉の遊戯として「空」と言っているのか。

だとしたらその者の語る「空」には何の意味もない。
悟りの実質を表現する時に言葉を使うだけであり、悟っていない者が「空」と言おうが、「無」と言おうが、それは単なる観念の遊戯に過ぎない。

神理は「絶対無相」であり、形はない。
その無限の実体を表現する時に「空」や「無」という言葉を使うに過ぎない。

悟っていない者が、教科書を暗記するように仏典の教説と言葉を暗記して「空」や「無」を語っても何の意味もないということです。

「空」を大宇宙の本体と捉えるならば、生命即物質、実相即現象であり、「色即是空、空即是色」と言えます。

この場合、人間も「空」、この神の心を捉えて悟り、「色」たる神の体に表現していくことが人生の意義と言えます。

大宇宙のみが人間に生き方を教えているということです。

過去の如来が説いた神理を勉強しておかなければ、我々の時代では彼らを乗り越えていかなければならなわけですから、最先端の神理とは言えなくなります。

日本では、どういうわけか如来がぼこぼこと出ているわけですが、かつてなかった現象ではないかと思います。

他国の歴史を見ても一時代にこれだけの如来が出てきたことはないと思います。

他国にこれだけの如来が集中して出ていたならば、既に10年と経たず、世界的運動になっています。

猫に小判」、「豚に真珠」となっているようですが、我々は我々で「法の編纂」を進めていかなければならないと思っています。

猫に小判を与えても仕方ないし、豚に真珠を与えても彼らは足で踏みつけていくだけです。

猫や豚が求めているのは「エサ(利益と快楽)」であり、感情的快楽です。

世界の中心で愛を叫ぶ』でもありましたが、「助けてくださーい」って「男がメソメソしたこと言ってんな」、「愛ではなく、大の男が泣き言を大げさに叫んでんな」、「男が、あまりメソメソ大泣きしていると腹をくすぐって笑わせるぞ」と思いますが、感情的快楽です。

変な顔して「
助けてくださーい」とか言ってんな。
麻薬を打ち続けている患者に見えます。

麻薬が切れれば禁断症状を起こします。
すると涙を流したい快楽にふけり、あるいは笑いたい快楽を求めて、お笑いと涙のみを求めていきます。

苦楽を捨てて、中道に入れ」が神の道ですが、苦楽にどっぷりとつかり、むしろそれを求めていきます。

世界を物色し、快楽をあさっている人間のようです。
快楽を求めているとは、刺激を求めているということであり、これが格闘技ブームや世界崩壊願望につながっています。

信仰の世界は、そういった世界には属していない。

自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」では「無我」から入り、「活殺一如」と「唯美進化論」までを説きました。

中間に次世代の経済原理に関する経済リポートを3本入れましたが、これは「
自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」とは関係ありません。

芸術論に入りましたが、今回の「
自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」だけでは、芸術論の全てを語ることはできません。

一応、「生かす」という視点からはまとめますが、実は芸術論というのは神理の完成体ですので、全てを開示するには量的に不可能なのです。

別の機会に改めて芸術論は取り上げることになります。

人を信じ、世を信じ、神を信ぜよ」でも「自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」でも、これは「信仰と愛」を意味しておりますが、今後数千年かけて詳細に進化発展していく価値です。

単にその探求と実践は80年や90年といった単位ではないのです。
これは総論であって、各論ではありません。

この総論が詳細に歴史共に進化していきます。

「自を生かす」は神界、「他を生かす」は菩薩界、「全てを生かす」は如来界以降の悟りです。

これは全歴史を通じて、実践されてくるということです。

ただしこの「信仰と愛」は、『神約在民論』といった政治体制の中において「生命と物質」という我々に与えられた唯一の人類普遍の価値基準が組み込まれている体制下で意味を持ってくる価値です。

既存の「
人民共通の利益に基づいた国家契約」である民主主義下において「信仰と愛」を説いても、所詮は利益下の「信仰と愛」になりますので、神理が実体を伴わなくなります。

その教祖が、あるいは開祖が、神の御心に叶う具体的な政治体制と理念を説き得なければ、その教祖や開祖の説く神理は「方便」に過ぎず、所詮は利益下で説かれている善であり、正義に過ぎませんので、その神の心とやらは利益という「悪」の下に置かれている教義に過ぎなくなります。

そのご立派な神の心は利益の下に置かれている「
にせものの神理」と判断せざるを得ない。

好意的に解釈しても方便に過ぎず、現代も如来が生まれておりますけれども、それはたとえ霊格が如来であっても、またその語る神理は、たとえ正しくとも結果論としては「
にせものの神理」になっているということです。

それは民主主義という「利益」の下に神の存在が置かれているためであり、その教祖や開祖は、それを乗り超えた人類の模範を政治体制として提出していないからです。

神の存在は利益の下には置かれていない。
客観の世界で置かれてはいないのです。

現代の神理において動機説は取られていません。
動機さえ良ければ神理であるといった判断は西田哲学でも唯神実相哲学でも否定されているのです。

主観的に正しく、正義であっても、客観的に民主主義といった政治体制を超越した、それでいて神の目から見て今後の人類と世界の模範的体制理論をその開祖や教祖が説き得ないのであるならば、それは主客が分離している。

主客合一の悟りを有しているとは言えない。

主観で絶対の神理と言いながら、客観的では民主主義を乗り越えられず、その語る善は利益の下に置かれている。

主客が分離している。

主客合一の悟りを有しているならば、当サイトの神理が全世界のトップである点が理解できているということであり、理解できていないということは、その如来は「主客合一」を悟っていないということです。

『神約在民論』の世界的意味を理解できていないということであり、理解できていながら、それを認められないということはプライドと自我で法を説いていると判断されても仕方ないのです。

この世で日本の天使が、あるいは大衆が、それを認めようが、認めまいが、人類と世界の普遍的模範として『神約在民論』国家は実現されるのです。

民主主義の全ては『神約在民論』によって神の体制に進化し、今後、数千年、全世界を制する体制となります。

そしてこれが全人類を救う神の体制となるのです。

それは客観である政治体制だからといって主観を救わないといった体制ではない。

現行の共産主義や民主主義は、その客観の体制が主観の生命を救わない体制となっている主客分離の体制ですが、その原因は両者共に「利益」がその本質となっているからです。

利益と物質を中心とすれば主客は合一せずして分離します。

主客合一の悟りとは、すなわち主観と客観の世界の本質は共に神の心である事実を悟っている点に在ります。

仏は内にも外にもありはせん」 : 臨済義玄

『神約在民論』は、主客合一の政治体制であり、それは文明と自然界をも融和させ、霊天上界までの全てを救います。

この客観的な政治体制の実現は、そこに住する全ての国民の主観、すなわち生命をも救う。

そして全世界の模範的な政治体制となり、これは数千年続く。

『神約在民論』は、次の文明においても模範となる体制ですから、少なくとも今後、数千年はこれ以上の政治体制は出現してきません。

人を信じ、世を信じ、神を信ぜよ」の「信の根源的思想」も、「自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」の「愛の悟りの段階論」も全ての教えは、『神約在民論』国家の実現において無限に生きる教義となります。

既存の民主主義下では利益の下に神の存在が置かれるために全てが利益を追求していますから、結果、「信仰」を説こうが、「愛」を説こうが、効率的にその神の心の効果がそがれ、無限に生きる神理とはならないのです。

神の心の全体を効果的に、しかも無限に生かしていくためには、どうしても政治体制の変革まで行かなければならないということです。

今回の法は過去のあまたに存在していた文明下でも説かれたことはない法です。

まさしく地球では最終最後の神法となります。

それは始めれば終わる「無始無終の神理」であり、『神約在民論』は生まれた時に、民主主義が死ぬ、生死一如の神理です。

「大宇宙の絶対的権威」は、アルファにしてオメガ、始めにして終わりであり、文明と自然界が次世代の関係にシフトしていく唯一の権威です。

これが地球を救う唯一の道です。